北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

「在中日本人108人のそれでも私たちが中国に住む理由」とアメリカの記憶

以前ご紹介した、中国に住む日本人の声を集めた本、
「在中日本人108人のそれでも私たちが中国に住む理由」
が8月末、いよいよ発売されたようです。

8月30日に行われた出版熱烈歓迎会には、北京の編集チームや執筆者、そして毛丹青さん、泉京鹿さん、さらには女優の田原さんまでが駆けつけて下さいました。原口さんをはじめとするスタッフの皆さん、ほんとうにご苦労様でした。

本書のテーマについてですが、正直なところ、私自身には、中国だから住んでいる、という気持ちはそこまで強くありません。たまたま中国の文化や人と出会う機会が多く、さらに専門で中国文学を選び、留学してみたら住み心地が良く、知りたいこと、やってみたいことがたくさんあった、という流れによるもので、これは私にとっては、中国でなくても、ロシアでもインドでもチェコでもウズベキスタンでも起こり得たことだと思います。

実際、大学で東洋史学科に進んだものの肌に合わず、専門を選び直した頃は、中国文学よりロシア文学に行きたい気持ちが強かったのです。でも、私の通っていた頃、大学の文学部にはロシア文学科がありませんでした。それで、中国語が好きだったこともあり、中国文学科に行ったのですが、思えばそれが中国との長く本格的な付き合いの始まりになりました。

なぜロシアと中国の文化に惹かれたかというと、簡単には説明できないのですが、今思えばやはり思春期の頃、つまり「皆が教えてくれないこと」を知りたがる年頃に、冷戦期のアメリカにいたことが大きいと思います。

アメリカ人とひとくくりにされがちですが、誰もが知っているように、アメリカは移民の国。1980年代半ば当時、私の周りにもいろんな国からの移民がたくさんいて、長く住んでいる人も来たばかりの人も、おおむね自分のルーツを誇りにしていました。

ちなみに中学校の先生方の名前を思い出すと、ルーツの分かる名前が多く、興味深いです。
例えば、
音楽の先生は Mr.パブロフスキー(典型的なロシア系の姓で、実際、チャイコフスキーが大好きだった)
歴史の先生は Ms.アイリッシュ
理科の先生は Mr.スコット
他にも、スイスにルーツがある姓らしき、英語(いわゆる国語)のキンダーマン先生にかわいがってもらったのを覚えています。

でも、ルーツこそ異なれ、みな目標は「アメリカ人」であることなわけで、2年くらい住んだ頃、ある先生に「あんたはもう2年も住んだんだからアメリカ人だ」と言われてびっくりした覚えがあります。今思えば、まだまだ移民に寛容な時期だったのかもしれません。私もそれに応えようとしたのか、必死でアルファベット順にアメリカの州名を連ねた歌を覚えました。おかげで、その歌は今でも歌えます。さらに強烈な印象として残っているのは、国歌もろくに歌えなかったのに、小学校の代表として国旗掲揚を手伝うことになり、白人や黒人の同級生数人と、いそいそとアメリカの国旗を運んだことです。

ちなみに、覚えている限り、校内に黒人は一人、黄色人種は朝鮮系、中国系、日系(私)が一人ずつだったので、わざわざ私を選んだのは、「多民族国家としてのアメリカを強調するためかな」と当時は思いました。でもさらに深読みすれば、ジャパンバッシングがひどかった頃ですから、同級生に私がいじめられないための、先生の配慮だったかもしれません。実際、私を「恒常的に」いじめた子も、一人だけいました。今でもその男の子のフルネームは忘れられません。ほとんどの同級生は親切にしてくれ、むしろ私をいじめっ子から守ってくれたのですが。

そもそも、当時のデトロイトは移民も移住もとても多い土地で、転入生をいじめていたら、いじめきれないほどでした。本の中にはイラン人の同級生のことを書きましたが、彼女の他にもベルギーやドイツなどあちこちからしょっちゅう移民が来ていて、先生方もその対応には苦心していたようです。

そんな中、わずかな例外を除き、子供同士は言葉の壁など乗り越えて、普通に友だちとしてつき合っていたわけですが、いざ出身国のことを知ろうとすると、かなり情報が限られていたのが、中国と、当時ソ連と呼ばれていた今のロシアでした。周囲のアメリカ人たちは、映画やニュースなどの伝える価値観の偏りから、ソ連や中国などの社会主義国を、恐らく当時の日本人以上に「理解しがたい価値観をもった人たちの国」とみなしていたからです。まさに、スティングが「ラシアンズ」を歌い、「私たちはイデオロギーこそ違っても同じ人間」、「もしもロシア人も自分の子どもたちを愛するなら」原子爆弾や戦争は避けよう、と訴えていた頃のことです。

でもこの歌がヒットしたのは、イデオロギーの差がそれだけ大きな壁だったからです。当時、同じクラスに華僑の子が一人だけいて、東アジア系ということで、よく周囲から勝手に「同類」扱いをされたのですが、いざ「中国ってどんな国?」と大人に聞いても、みなほとんど知らないどころか、そんなことは知るに値しないという反応でした。子供がつねに敏感な「タブーの匂い」さえそこにはありました。

でも、アメリカ人の子供は素直ですから、私自身は周囲の無邪気な同級生たちからそれこそ数えきれないほど、「ねえ、中国と朝鮮と日本の文字の差って何」とか、「目尻が上がってるのが中国人で、真ん中が朝鮮人、下がってるのが日本人なんでしょ」といった根拠のあるようなないようなことを、時にゼスチャー入りで問いかけられ続けたのです。

そんなある日、サンフランシスコの中華街に行く機会があり、そこで中国の古切手が集められたセットを買いました。その切手を見ながら、手紙を書いた一人一人の人のことをいろいろ想像したのが、中国に住む人々に具体的な興味をもったきっかけの一つだと、今でも思います。

もう一つ覚えているのは、当時、海外在住子女の日本語教育を支援するための通信教育を受けていたのですが、その教材に毎月ついてくる付録に、海外に住む子女の投稿を集めた冊子があったことです。そこには、中国に住んでいる日本人の子供の投稿もありました。内容はよく覚えていないのですが、中国での生活の面白さが淡々と綴られていて、当時からマイナー好みだった私は、「アメリカみたいなメジャーな国じゃなくて、日本人のあんまり行かないところに住んでみたいなあ」と思ったのを覚えています。もちろん、ここ十年ほどは、中国も移住先として十分メジャーなわけですが。

何はともあれ、そんな背景があったからこそ、大学に入った後、実際に中国やロシアからの留学生たちと親しくつきあうようになり、彼らの人間的魅力、そして中国とロシアの文学の奥深さに気づいた時の衝撃は大きかったのだと思います。

そんなこんなで、昔話が長くなってしまいましたが、実は今回の本のために書かせていただいた文章の中にアメリカが出てくるのは、中国に関心をもったきっかけをデトロイトでの生活にたどれること、そして当時、もう一つの歴史的ジャパンバッシングを体験してしまったから、だけではありません。

他にもいくつかの大事な暗喩があります。端的に言えば、戦争屋の戦略にはまり、東アジアを新たな中東にしてはいけない、との願いです。また、かりにどんな根拠があったとしても、他国人に一方的な偏見をもつことは、結局は憎悪を増幅させるに過ぎず、非建設的どころか、禍根を残しかねないこと、さらには偏見の相対性のようなものを伝えたいと思いました。

中国のことを書くべきはずの文章でアメリカの事を書くなんて、一見、へそまがりであまのじゃくに見えるかもしれませんし、私もそれは否定しませんが、
だからといって、ただそれだけでもないことに、気づいていただければとても嬉しいです。