北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

文化的多様性の日

親戚からもらった情報ですが、昨日は国連の提唱する「文化的多様性の日」だったのだとか。
https://app.e2ma.net/app/view:CampaignPublic/id:1407883.7072138234/rid:78dcd81b82093702236455c7abfd4501
国連がどういう組織で今何をやっているか、という議論はとりあえず置いておいて、
中国にいるということもあるのでしょうが、「文化的多様性を認めること」はやはり大事だ、とつくづく思う毎日。

そこで私は、一種パラドックスのようですが、東北の原発災害にも影響を受けて、最近二つのことを始めました。

一つは、環境にいい生活をすること。文化は多様であるべきだけど、だからといって、それぞれが好き勝手をすればいいのではない。石炭を掘って稼ぎたい、という人たちと、その土地で遊牧をしたい、という人たちが、それぞれ好き勝手なことをすれば、必ず衝突する。ウィンウィンになるためには、お互いの生存の基盤としての自然環境を極力守る努力を双方がすべき。

エコロジーに関しては、大学時代はそれなりに努力したりもしていたのですが、中国に来て、せっけんシャンプーやせっけん洗剤が手に入らない、などなどの理由もあって、かなり放棄し、自分を甘やかしていました。環境に悪い薄手のビニール袋も、こちらでは、野菜に土がついていることが多いので、ついもらってしまうことが……。

チベットを旅行した時に、ビニールゴミの山をヤクが漁っているのを見て、とてもがっかりし、つらかったのに、その風景を自分も知らず知らず再生産していたわけです。これはやめたい。

二つ目は、まじめに英語を勉強すること。子供の頃アメリカに滞在した時、英語で苦労をしすぎたため、そのトラウマで日本に帰ってからはどうしても英語の勉強に身を入れることができなかった。大学の時も克服しようと努力し、実は一外を英語にしたくらいだけれど、やっぱり失敗。授業のためでなくて自ら買って読んだ本はほんとうに数えるほど。

でも、この間読んだある外国小説の日本語訳があまりにひどかったのに辟易し、日本語の訳書には限界がある、と改めて気付いた。また、スウェーデン人の友達が勧めてくれるいくつかの小説をどうしても読みたかったけれど、日本語の訳があるものはほんの一部だった。

そこで、中国で手に入る英訳を探し、読んでみたら、これがなかなか面白くて、目からうろこが落ちた。
これまで何で英語が世界のコミュニケーションを牛耳ってるんだ、という気持ちがどこかにあって、それも英語のまじめな勉強を妨げていたけれど、今はいろんな国や文化の人が英語を媒介にして自国の文化や文学について発信している時代。
もちろん、英語だって万能ではないし、翻訳の過程で捻じ曲げられたり消えてしまう意味内容は多いに違いないけれど、多様な文化、とくに私の大好きな世界の文学にアクセスするツールの一つとして、英語はやっぱり役に立つ。そういう当たり前のことに改めて気付いた。人生半分近くなって、やっと人生のうちで学べる言葉には限りがあることに気づいたのかも。

でもまだまだ読みたい中国語の本もたくさんあるし、ロシア語ももう一度がんばりたいし、なかなか欲はつきない。時間も体力も限りがあるのに。
しかももう一つの壁は、中国に入ってくる英語の本に限りがあり、その値段もけっして安くないこと。

やっぱり書籍電子化の時代の到来は避けられないのかな?個人的には紙の本が大好きだけれども……。