北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

初盆出張旅行記 その9

さて、やっと何とか北京行きの帰りの列車に乗った私たち。
今回も寝台の切符は手に入らなかったので、二等座席で夜を明かさねばなりません。
でも、座れるだけいい方です。通路には「無座(座席なし)」切符を買わざるを得なかった人がたくさん立っていました。寝てもいましたが。

今回、このとんでもない「乗客密度」の中で、考えざるを得なかったのは「安全」でした。
その頃はすでに島問題が徐々に緊張を高めており、
不特定多数の人がいる場では、用心しなければならなかったからです。
もちろん経験上、大半の人は相手が日本人だと分かっても、敵意をむき出しにしたりはしない、ということは知っていますが、当然、世の中にはいろいろな人がいます。

でも、幸い私は日本人。しゃべらなければ分かりません。
座席は4人掛けで、指定された場所に座ると、私以外はみな男性。相棒は通路を挟んで向かい側でした。。

さて、だんまりを決め込むぞ、とPCを開いて仕事開始。
しかし、誤算が。
隣の今年大学に上がるという子が、めちゃめちゃおしゃべりな子だったのです。
プライバシーもへったくれもなく、パソコンの画面を覗いては、いろいろと話しかけてきます。
「お、日本語じゃん。何打ってんの」
「中日翻訳をしてるんだよ」
「日本語分かるなんてすごいねえ。でもこのパソコンの画面、ちょっと変だね」
「え、どこが?」
恐らく、システム自体が日本語のパソコンを見たことが無いのだろう、と気付きますが、もちろん、とぼけます。
取りつく島がないと分かった青年は、やがて詮索をあきらめ、山のように持ち込んだ食べ物の消費に専念し始めます。
ほんとうは私もおしゃべりは嫌いではないので、残念に思いつつも、ほっと安堵。

すると、こんどははす向かいの酔っぱらったおじさんが、人情こってりのフレンドリーさで、「足のどこが悪いのか」とか「がんばれよ」とか話しかけてきます。
こちらも、相手が話の矛先を変えた上、眠りこんじゃって、クリア。

やがて周囲がみな、あれこれ身上話を始めるなか、何と私の向かいが軍医さんだと判明。その隣も今は健康食品を売っている、元お医者さんだそう。

実は帰りの鑑真号の中でも有名なお医者さんと知り合うことができたので、今回はお医者さんと知り合う旅だな、とびっくりしますが、

こちらは軍医さん、つまり軍人さんです。
中国の軍人さんが意外と外国人に対してフレンドリーなのは、これまでの経験で知っていましたが、時節柄、さらに口に「厳重なチャック」をします。

そんなこんなで何とか夜を明かした次の朝、魔の車内アナウンスが……

「身分証明書をチェックしますので、みなさん準備しておいてください」

えっ!!そんなことこれまでなかったぞ!
身分証明書といえば、私にはパスポートしかありません。座席どころか通路にも人がいっぱいいるような、コンデンスミルクのように中国度の高いところで、日本人だということがバレるなんて……。

一人一人身分証をチェックする車掌さん。こともあろうに、そっと渡した私のパスポートを手に取り、「お、日本人だな」と実に周囲に分かり安く口にします。

その後で、周囲の空気がさーっと冷めたのを感じたのは私だけではないはず。それまで、目が合うたびほほ笑んでくれた向かいのおばさんとも、二度と目が合わなくなりました。

しかしここで、急に生じた空白を取り繕うように、急にフレンドリーになった人がいました。
驚くべきことに、向かいの軍医さんです。
「実は、80年代に軍隊にいた時、毎朝、4時起きでね〜。5時から朝のラジオ日本語講座があったんで、毎日聴いてたんだよ。半年で投げだしちゃったけど」と言いながら、その時に覚えた片言の言葉を披露します。

そもそも、軍人さんというのは外国人と戦争をするのが前提なので、外国語教育には熱心だと聞きますが、どう斜に構えて聞いてみても「仮想敵国の言葉を学んだ」という緊張感はありません。1980年代の日中友好時代に学び始めたという前提もあるのでしょうが、ただ純粋に、共通の話題が持ち出せて、喜んでいる感じです。

一連の島騒動の裏の裏に気付いているため、見方が醒めているのかもしれない、ということはとりあえず置いておき、

学ぶ目的がどうあれ、やっぱり言葉を学ぶことは、それまで接点のなかった異文化を身近に引き寄せることなのかもしれません。

わたしもかつてやみくもにいろいろな外国語に手を出し、何度も敗北を味わいましたが、少しでも自分が学んだことのある言葉をしゃべる人には、今でもどうしても親近感が湧きます。

子はかすがい、といいますが、言葉も「かすがい」なんだな、とつくづく思った瞬間でした。

そんなこんなで、旅は終点に。
読んでくださった方々、おつきあい、ありがとうございました!