北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

映画「蕭紅」と「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」

この順番で映画を観たのが、よかったのかどうかわからない。

イギリス初の女性首相、サッチャー、そしてまだまだ女性作家そのものが少なかった民国期に、純粋に原稿料だけで自立して生活した、中国初の職業女性作家ともいわれる蕭紅。この二人の生涯をそれぞれ描いた伝記映画を、つい先日、同じ日に同じ映画館で観てしまった。

演技の迫力、という点において、サッチャーを演じたメリル・ストリープに、蕭紅を演じた宋佳が呑まれてしまったのは仕方ないとしても、そもそも「蕭紅」の方に過剰な期待を抱いていなかったせいか、結果としては、サッチャーの後に見ても、それなりの印象が残るなんて、「蕭紅」もなかなかじゃないか、と結構満足できた。

サッチャーは社会的弱者を切り捨てる政策を貫いたことで有名。フォークランド紛争でも敢えて開戦に踏み切ったことで、多数の兵士が戦死した。彼女の主張には、領土は絶対に他国に渡さない、島国の気概を貫く、過去の繁栄を取り戻すといったニュアンスがあるため、どうしても今の日本と重なってしまってドキドキしたが、雑貨屋の娘である彼女が、「弱者が頑張ってのし上がれる社会」をめざした経緯はなんとなくわかった。「社会主義を打ち砕く」という党員の主張が字幕に訳されていなかったのは、「やっぱり」と思ったけれども。

何はともあれ、民主的な選挙制度の生き生きとした描写があるこの映画が、今の中国で劇場公開されたことには、軽い驚きを覚えずにはいられない。日本と比べ、だいぶ遅い公開とはなったが、決して単館上映ではない。

次に「蕭紅」。卒論で彼女の「呼蘭河伝」を扱ったほどの蕭紅びいきとしては、彼女の文学世界を映像化するなど不可能だと感じられてならず、最初からそのつもりで観たので、かえってそこまで「裏切られた」感はなかった。

親の定めた結婚がいやで実家を跳び出し、追いかけてきた許嫁に体を許すも、妊娠後に捨てられ、初めて心から愛した男、蕭軍にも裏切られ、端木蕻良との「愛情こそなくても安定した結婚を」との願いも叶わなかった蕭紅。確かに彼女の作品そのものに、そのドラマチックな愛の経歴が描かれることは少ないため、その恋愛面を強調することは、彼女を「誤読」することになるのかもしれないけど、彼女の生涯を詳しく調べ、関連資料などもかなり読みこんだ私からすれば、映画に描かれている彼女の生涯は、まさに知っている「そのまま」に近く、ハルピン時代の苦労話などは、まだまだ「描き方が甘い」と思うくらいだった。彼女は一時期、零下何十度の冬、昼は友人の学生宿舎にもぐり込んで寝て、晩は外を歩いて時間をつぶす、という生活さえ送っているはずだからだ。

そもそも彼女の作品にしばしばにじみ出ている故郷への強い執着が、その孤独で愛情に飢えた生涯あってこそ、であることを理解しておくことは、決して悪くないと思う。

魯迅を聖人視する中国の知識人の中には、作中における、魯迅と彼の唯一の女弟子である蕭紅との「あいまいな関係」の暗示に不満があるようだが、私が昔読んだ文献の中には、確かに、蕭紅と魯迅の関係に許広平が「やきもち」を焼いていたことが分かる部分があった。もちろん、それは許自身も正夫人から魯迅を奪った経緯があったがゆえの、過剰反応だったろうと思う。だが、魯迅と蕭紅の間に親しい交流がなかったとしたら、許広平がやきもちを焼くはずがない。そもそも魯迅は北京に住んでいた期間も、弟の学生の妹たちをかわいがったりしている。もちろん、当時は白色テロの脅威があり、蕭紅が魯迅と自由に会えなかった可能性は高いが、魯迅はそもそも、決して若い女性を近づけないような、お堅い人物ではなかった。

それに、実際の映画における描写自体、そこまで露骨ではない。確かに蕭紅は夫婦生活の悩みを魯迅にいろいろと打ち明け、魯迅もそれにアドバイスをしたりしているが、それ以外の描写といえば、蕭紅の作品集の序文を書き終わった魯迅に、蕭紅が「ありがとう」とお礼を言うと、「どのように感謝してくれるの?」と魯迅が答えるシーンのみ。ちょうど蕭紅と許広平が餃子を作っていたことから、魯迅はすぐ続けて、「じゃあ、餃子を食べさせておくれ」と言う。

識者たちは、前半のセリフ「どのように感謝してくれるの?」に疑問を投げかけているのだが、このセリフに眉根を釣り上げるのは、むしろ色仕掛けや賄賂社会に通じた人だけと考えてよい。魯迅と蕭紅の不純な関係を疑うのは、自らも不純なロジックに染まってしまった人たち、というわけだ。これはもしかしたら、脚本家の罠なのかもしれない。

もちろん、映画が客観的に蕭紅の生涯を描いているかというと、そうとも言えない。実際の蕭紅は、東北が日本軍に占領されたことを憤りつつも、上海の人々がそれに「無関心」であることにも憤っている。また魯迅の死後、丁玲らと一時期行動を共にするが、丁らの急進的な左翼運動とウマが合わず、袂を分かった経緯がある。これらは目下、大陸の映画で描くことは不可能だし、それを期待してもいけない。

だが映画では、彼女の傑作が故郷を描いた作品であること、とりわけ「呼蘭河伝」が畢生の大傑作であることが、きちんと描かれている。これは大きい。

なぜなら、蕭紅の小説については、革命的気概が盛り込まれた「生死場」やリアリズム的要素の強い初期の短編を除いては、解放後の中国では冷遇され、私が最高傑作だと感じる「呼蘭河伝」でさえ、文学選集からは長らく省かれてきたからだ。

実は中国で「呼蘭河伝」にスポットが当たったのは、21世紀に入ってからのこと。最近、「南方週末」に評論が掲載されたせいか、さらに人気が増したらしい。昨年末、香港の書店で、目立つ場所に「呼蘭河伝」が平積みにされているのを見た時は、涙が出るほど嬉しかった。

そして、今回の映画公開。彼女の生涯にスポットが当たることは、たとえその描かれ方が不十分であったとしても、忘れ去られるよりはいい、と思う。多くの人が彼女の小説を読むきっかけになるだろうから。これで、現代の多くの若者が持つらしき、民国期文学アレルギーが治ればなおいい。

それに、忘れられさえしなければ、「伝説」は語り直すこともできる。その幕開けとして、映画「蕭紅」はまずまずの第一歩だったと思う。