北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

家が幼稚園に大変身!

近所の人のことをネタにするのはあまり良くないと思い、避けてはいるのだが、
実は私の隣人たちは個性豊かな面々。ちょっとした小社会だ。

ある日、蚊除けの暖簾をくぐって、近所の子が遊びに来た。
さあ、遊ぼう、といっても、我が家には彼女が遊べそうなのは、日本のメンコやヨーヨー、あやとりの紐くらいしかない。

今時の子なのに、メンコの遊び方を知っているのにはさすが胡同っ子!と思ったが、メンコのカードの種類が日中で違うらしく、すぐに飽きてしまった模様。

ベーゴマや木のコマや将棋は難しすぎるだろうし、日光写真は台紙を使い終わっちゃったし(何でそんなものが我が家にあるんだ?というのは置いといて)……と残念に思っていると、

幼稚園ごっこしよう、ということに。

そこで我が家が臨時の幼稚園になる。
先生役の彼女が命令を出す。

「はい、きちんと座って」
厳粛に座る私と相棒。

勝手に我が家のナッツの袋(未開封)を開け、むんずと中身を取り出す彼女。

「はい、よし」と夫の口にナッツを入れる。

「だめだめ、その手の置き方は」と私にはくれない。

後は問題を出す時間。

「1000足す3000は?」

まだ幼稚園なのに、ひとけたの足し算はすでにできる彼女。
一生懸命難しい問題を出そうとしているようだが、数が大きければ難しいというわけではない。

「4000」

「よし!」と私にもナッツ。
で、自分もぽりぽり食べている。

「あ、先生、答えてないのに食べてる!」というと、

「先生は好きに食べていいんです」(本当か?)

面白いのは、先生の言葉遣いとか、舌打ちするタイミングまで上手にまねること。

しまいには、家から自分の砂糖菓子まで持ってきて、我が家の机の上でがんがん叩いて砕き、「ご褒美」としてかけらを無理やり口にいれてくれた。「ええ、手洗ってんの??」という感じなので、つきあうのもたいへん。

とはいえ、子供がいない私たちにとっては、家が「幼稚園」になるのは何とも面白かった。「食べ物でつるなんて、動物の訓練みたいだ」とか、「先生特権あり過ぎ」と相棒は苦笑していたけれど。

算数の次は音楽の時間。

その子は、幼稚園で習っているいろんな歌を披露してくれ、中には英語の歌も。すごいね!と拍手。

でもぎょっとしたのは、国語の時間になって、「弟子規」の一節を暗誦し始めた時。「弟子規」とは、論語の教えを分かりやすく伝えるため、清朝に作られた三文字ごとの教え。

中国で育った、一応中国人の相棒も、中国文学を専攻した私もちんぷんかんぷん。でも、口にしているその子自身もちんぷんかんぷんのようだった。

さっそくネットで調べてみると、生活の規範や親子の道徳関係などを簡潔な言葉にしただけのもので、内容的にはそこまでびっくりするものではなかったけれど、やっぱり儒教色は濃厚。

さすがに中国でも賛否両論らしく、ネット上には、「好奇心旺盛な就学前の子供に、自分でも意味の分からない言葉を暗唱させることの意味」に懐疑的な、私がしごくもっともと思う説が発表されていて、ちょっとほっとした。

ただ、ショックだったのが、その下に連なる十本以上の書き込みがすべて、それに反対を唱える意見だったこと。それは、
「古典の暗記と創造性のはく奪は直接の関係がないはず」という、比較的理性的なものだったりしたけれど、私はやっぱり納得できなかった。

どうせ暗記させるなら、杜甫や李白の詩の一節の方がよっぽど普遍性があるんじゃないだろうか。

倫理規範などは、時代とともに変化するもの。特に子供には、その時代のもっとも分かりやすい言葉で教えるのが一番だと思ってしまう。
ただでさえ、公共のルールがただの「建前」になりやすい国なんだから。

それにしても、魯迅が散文集「朝花夕拾」で、儒教的な親孝行を賛美する「二十四孝図」を批判してからまだ80年。時代は逆行しているのでは?と不安に。

結局今、「それ以上の物」がその後の歴史の中に見つからない、という意識から、清朝返りしちゃうんだろうな、と思いつつ、数年前に小学校の授業で聞いた小学生の言葉、

「私は中国の革命のために命をささげます!」

を思い出す。

ってことはいずれ、小学生が幼稚園に乗り込んで「革命」するのか??