北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

マナーのカテゴリー

小学生の頃、家にアメリカ人の1、2歳年上の友人を呼んで、日本風の家庭料理を一緒に食べたことがあった。

確か、ご飯だったと思う。お茶碗を手に取り、直接口に近づけて食べると、友人はとってもびっくりとして、「何て食べ方をするの!!」と声を上げ、いかにも驚いた、というゼスチャーをした。何だか目の前の友だちが突然異星人にでもなったかのような反応だった。

それは確かに上品な食べ方ではないかもしれないけれど、大人でも急いでいる時ならよくするような食べ方。そこまで非難されるべきものだとも思わなかったので、友人の大げさな反応に、私の方までびっくりした。
その後、欧米ではお皿や碗をほとんど持ち上げない食べ方が主流だと知り、マナーの善し悪しって文化によっていろいろなんだと、子供心に思い知った。

中国に来てからは、むしろ相手の食べっぷりに驚くことの方が増えたが、それでもある日、熱い麺に軽く息を吹きかけて食べようとすると、北京っ子の相棒がびっくりした様子で、「それは下品な食べ方だ」と言った。よく見ると相棒は、熱い麺を食べる時、箸で麺を持ちあげたまま、少し冷めるまで待って食べている。こちらからすると、その高々と持ちあげている間の様子がいかにも猫舌っぽい感じで面白いのだが、言われてみると、その方が上品に見えなくもない。マナーっていろいろだなと、また改めて思った。

ロシアのある小説の食事のシーンで確か、レストランで食事をしている荒くれ者たちが、テーブルの上に直接食べ殻を棄てまくっている様子の描写があった。その描写の後で確か作者は、「彼らはそれでも、床に捨てないだけ、自分たちは田舎者たちより上品だと思っているのだ」といったような主旨のことを書いていたように思う。妙に心に残った一節だった。

日中の間を行き来していると、よく中国的マナーとか、日本的マナーといってきっぱり分けてしまいがち。でも、実はマナーの分類は国別だけではなくて、お箸文化的マナー、ごはん文化的マナー、和食的マナー、都会的マナー、田舎的マナーと、いろいろな分け方が可能だ。もちろん、中国では都会も田舎も多層的だから、ちょっと都会(田舎)マナー、とっても都会(田舎)マナーなどに分けられたりするし、民族によってもマナーは変わる。

だから、中国で長く住むにつれ、ちょっとやそっとのマナーの違いを目にしても、驚かなくなった。この人田舎から出たばかりで、都会のルールを知らないんだな、とか、田舎道を歩くつもりで人や車の多い道を歩いちゃうんだな、とか、親もきっとそういうマナーだったんだろうな、とか思うと、いかに自分にとっては不快なマナーでも、心の一部で納得できてしまう。特に大躍進関係の本を訳してからは、新中国成立後の歴史はいつも心に留めておくべき「背景」だと思うようになった。社会の制度や状況がしばしば個人の権利を踏みにじる社会では、誰もが自分の利益を護るために必死で、マナーや秩序を疎かにしがちな風潮が生まれてしまう。実際、大躍進の間は、マナーや秩序を厳格に守ったら、飢え死にしてしまいかねなかったようだ。

それに中国にだって今はいろんな価値観の人がいるから、車の窓からゴミをポイ捨てしている人を見てあきれ返る人は、中国人の中にも大勢いる。マナーの向上も明らかで、映画館で映画を観ている時の、「隣の観客がうるさくて困る」という情況はここ数年で格段に減ったし、公衆トイレでの並び方も、少なくとも北京では以前に比べるとだいぶ合理的になってきた。

もちろん、まだまだ「ひゃあっ」と思う状況はある。でも、明らかに非合理的だったり、他の人に迷惑をかけたり、やっている本人が損するマナーだったりすれば、そのことをできる範囲で相手に教えてあげればいいだけだ。そう思う私も、変人と思われるのを覚悟で、小さい声ながらできるだけ試みている。

列車で下車する人が優先されなかったりすると、乗ろうと押し寄せる人に向かって、「先下後上(降りる人が先)だ〜」と言いながら降りたり、電動バイクを走らせている時、ちゃんと歩道があるのに車道を歩いている人がいたら、「走人行道!(歩道を歩きなよ)」と言いつつ、どいてもらったり。列に並んでいるときに横入りされたら、「みんな並んでるんですよ」と注意してみることもある。

でも、こんなのいずれも、伝えた相手がその直後にすぐ目の前から去ったり、他に応援してくれそうな人がいたりするから言えること。

つまり、私なんてまだまだ臆病者なわけだけれど、そもそも自分にとっては、マナーそのものがかなり相対的。私が本当に正しいのか、と考え始めると、なかなかそう強くも言い出せず、
「上手に手鼻をかむのは紙の節約」なんていう論理に、つい負けそうになってしまうわけです。