北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

新聞を読む国、ニッポン

先日、北京の「新京報」に、
「新聞を大いに読む国はいかに鍛えられたか」というオストロフスキーの代表作をもじったタイトルの記事が掲載されていた。
http://www.bjnews.com.cn/world/2013/11/17/293030.html

現在、日本でも新聞離れは深刻なので、日本人の皮膚感覚とはちょっとずれるテーマだが、インターネットの普及などによって日本の新聞界が被った不況が欧米、とくにアメリカなどと比べればずっとまし、というのはよく知られている。

記事は、五大新聞が多くの読者を獲得していたり、新聞配達制度が学生を援助する仕組みになっていたりする日本の特殊な状況を含め、比較的客観的に日本での新聞の在り方を紹介していた。北海道が北海島(中国では音が近い)になっているなどの誤植はあるが、時期が時期だけに、日本の日常生活が、これほどの長文の記事で、詳細に、しかも比較的好意的に描かれていることには、やはり希望を感じる。

ただ、その好意というのは、日本人の情報収集の熱心さ、という以上に、日本の新聞業界の奮闘に向けられたもののようだ。「石巻日日新聞」が震災後、手書きで新聞を作って市民に配っていたことなど、確かに中国の今の新聞では想像しにくい。

だが実は、新京報と長く付き合った経緯をもつ私としては、記事は痛々しいものでもあった。近年、北京政府の管理下に置かれるようになったことで、筆鋒の鋭さがだいぶやわらげられてしまった新京報は、かつての購読層の維持が大変だろうと思われるからだ。

ゆえに、記事の最後の電子版と紙版をセットで売る日本の一部の新聞社の販売システムの紹介などは、末端の記者が新聞社のトップに向けて放っているメッセージのようにも感じられた。

新聞はプロパガンダの道具と考える伝統に組み込まれてしまった今の新京報は、ネットで全文、全写真がタダで閲覧できてしまう。過去記事であっても読み放題、というたいへん気前のよい新聞になっているのだ。正直、私もこれに気付いたとたん、紙版の購読をやめてしまった。電子化された、コピペ可能な記事なら、参考になる記事の保存も検索も簡単だからだ。

そもそも、毎日分厚い紙の束が届くのは処理も大変で、何より、要らない広告の多さに、「紙の無駄遣いだ」と心を痛めることも多かった。

しかも、半官報になってからは配達員のサービスも低下する一方。
昔の新京報は廃品回収屋より高めの値段で古新聞を引き取ってくれたり、長く新聞を購読している者には景品(ケース入りのワイン一本とか)をくれたりしたものだった。
だが、今のサービスはお世辞にもいいとはいえない。留守の間の配達の中止を頼んでも配達をやめなかったり、まだ半年先の分まで新聞代を払っているはずなのに、「もう期限切れ」としてストップされそうになったりなど、止める直前は困ったことも多かった。

だが、そんなことも、記事さえ良ければ我慢できる。いちばん痛いのはやはり、読みたいな、と思う記事が大幅に減ったこと。

つまり読者離れは自業自得、という面も大きいのだが、とはいえ、もちろん、記者の方々の心中は実に複雑だろう。政府の直接の管轄下になったことで、会社がつぶれる可能性は減ったわけだが、記者たちの不便や不満が増していることは、十分に考えられる。

そんな彼らの、「こんなんじゃいけない、どうにかしようよ」といった叫びが感じられたのが今回の記事だった、というわけで、
購読を止めたときの、配達員の「お前もか」的な失意の顔と、心痛む嘆願の声を忘れ難く感じながら、
それでも心を鬼にしてタダ読みしている私としては、かなり複雑な気持ちになったりもした。

そして、「いい記事が増えたら、またお金払うよ」とちょっと心の中で言い訳もしてみた。