どうでもいい話
つい最近、日本映画の中国語字幕を観察していた時のこと。
人の名の後につける「〜ちゃん」を「〜醤」と訳していることに気付いた。
例えば、「福ちゃん」は「福醤」。
「はは、面白いね、でもそしたら、私は麻美だから、麻醤(ごまだれ)だね。北京っ子は麻醤が大好きだから、私も北京に来たんだね」と相棒と笑いながら、
「冬は火鍋に麻醤、夏は涼麺に麻醤、北京っ子は麻醤なしでは暮らせない」とふざける。
すると、あれ、
何か変なイメージが混ざってくるぞ、と気付いた。
そして、昔の記憶がよみがえった。
小学校三年生になった春のこと。転校したばかりの私は、新しい小学校に母と一緒に向かっていた。
学校に行くまでの通学路を懸命に覚えようとしていたら、ふとある看板が目に入った。
当時、やっと漢字で自分の名前が書けるようになったばかりだった私は、
親しみを覚える漢字がその看板にデカデカとあるのを見て、嬉々として隣にいる母に言った。
「あ、私の名前だ、あれ何、何するところ?」
すると母は、
「何言ってるの!あれはあんたなんかの行く所じゃないの!」
と慌てながら、話題をそらした。しかし、子供は禁断の場所ほど気になるもの。私はあれこれ想像しながら、そこを頭の中でめいっぱい「あやしい大人の場所」に仕立て上げた。
やがて私は知ることになった。
看板にあった二文字は「麻雀(マージャン)」だったことを。
つまりそこは雀荘だった。
中国からやってきた大人のゲームは、幼かった私の心に、奇妙な秘密の親近感を残した。
とはいえ、やがて日本のマージャン・ブームは去り、これといったきっかけもなく、私はマージャンを覚えぬまま大人になった。
だが30年後の今、何の呪いだろう。何気なく言った
「北京っ子は麻醤なしでは暮らせない」
が、ふと頭の中で
「北京っ子は麻将なしでは暮らせない」
に変換されてしまった。
そう、「麻醤」は、マージャンを表す中国語の「麻将」と音がまったく同じなのだ。
そして、胡同に住む暇そうなおばちゃんたちの間で、交流と暇つぶしのツールとしてかなり流行しているのがマージャンなのも確か。
私はマージャンの呪いで今、北京にいるんだろうか。麻醤ではなくて?
ちなみに、スペリング・コンテストでいつも学年トップだった私のデトロイト時代の友人は、私のことをよくふざけて「セサーミ、アサーミ」と呼んでいた。語呂がよいから、と。
セサミはつまりゴマ。まあ、私は昔からゴマ粒みたいなミニサイズだったし。
となると、やっぱり麻醤の縁だよね?
それにしても、
人生も世の中も、どうでもいいのに気になってしまう、奇妙な暗号に満ちているものです。