北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

舞台「影のようにつき従う」

しばらくはてなダイアリーが開けず、心底焦りました。
開けられてよかった!と、本来なら当たり前のことがこんなに喜べるのって、いいんだか悪いんだか……。

先日、友人にチケットをプレゼントしてもらったお陰で、北京では珍しいことに、フランスの劇団による現代劇を鑑賞することができました。
現在北京で開催中の国際演劇フェスティバルに招待された演目の一つで、中国語訳のタイトルを日本語に訳すと「影のようにつき従う」。劇団の名は「多雷納方」とありますが、残念ながら、少し調べた程度では、アルファベット表記は分かりません。

舞台に登場する人たちは、誰もが誰かを背負い続けています。恋人同士、父親と娘、兄弟、殺された兵士とその敵……

舞台と字幕が離れすぎていたので、両方ちゃんと観ようとすると眼がカメレオンになってしまう上、結構台詞も多い演劇だったため、頭に入ったとはいえない部分も多々ありましたが、それを差し引いても十分魅力的な舞台でした。

肉体として存在する人間同士と、お互いの心の中に存在する人との関係のずれ、重なり合い、理解への欲求と、理解しがたさが交錯し、ぶつかりあっていて、何だか人間って悲しいな〜とせつない気持ちになりました。

戦争において殺される者と殺す者は、まさに一瞬の間に、お互い無縁の状態から生命を左右する存在へと切り替わります。愛し合う二人も、その表現や生きているタイミングが少しずれてしまうだけで、永遠の孤独に陥ります。限られた時間とタイミングの中で、互いを理解することはきわめて難しく、どうつきあうかを選択するのも難しい。分かっているつもりでも、本当はどれだけ分かっているのか、かなり疑問です。でもそれでも、誰もが何らかの人間関係を後生大事に、あるいは切っても切れない腐れ縁として背負いながら、生きていきます。

以前、フランスの短編映画を観ていた時に、注文を受け、タクシーのように相手を「おんぶ」して運ぶ、「おんぶ」屋を開業する青年の話があったのを思い出しました。その「おんぶ」屋は大繁盛するのですが、その「おんぶ」屋を利用する面々が実に豊富でユーモラス。遠くから見ると誰もが同じような庶民ですが、至近距離でつきあうと、クセが強く、実に個性的なのです。

その映画からは、個の自由や独立を重んじる反面、人と人のつながりをどう保つかが問題になっている、フランス、ひいては欧米の社会や文化の現状を感じ取れ、実に印象的でしたが、この舞台にも、ただ「おんぶ」を扱っているからというだけでなく、人と人の関係を肉体的な接触をシンボルとしながら見直している、という意味で、共通するものを感じました。

上演後のティーチインで、ある中国の演劇評論家が、中国の多くの若手俳優の舞台と異なり、演目が伝えようとしている概念と演技が分離していない、と評していましたが、これにはまったく共感。台詞の意味が分からなくても、十分面白かったのは、役者の動作一つ一つに何かが込められていたためでしょう。

この人と人が「分かりあえていない」ことをしみじみと実感する時世に、「そうなんだよ、分かりあうのは難しいんだよ」と訴えているかのような舞台を鑑賞できたのも、何というか、一つの縁かもしれません。

というわけで、チケットをくれたHさん、どうもありがとう!