北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

今日は丸太を切った。

木こりになった気分で。
芯まで、すっかり乾いた丸太を。

以前住んでいた四合院の敷地で、顔見知りの隣人が太い楡の木を業者に切らせていた。
せっかく、夏などいい感じに木陰を作っていたのに惜しいな、と思ったので、
「なぜ切っちゃうの?」
と聞くと、
「雷が怖い。それに手植えではなく、勝手に生えた木だから」と。
つまり雑草ならぬ雑木だから、ただ邪魔なだけ、ということらしい。

実際は自宅の建て増しのためでは?とも思ったが、
たとえそれが理由だとしても、
多世帯の住む大雑院化した四合院では、「寸土寸金(ちょっとの土地でも金の価値がある)」。
とくに高さ制限がある景観保護区の、勝手な建て増しを禁じられている公共住宅では、
1平米だって垂涎ものの面積だ。

その貴重さが分かる私は、
「高層ビルがいくらでもある北京で、この程度の木に雷なんて落ちないよ〜。ただ夏暑くなるだけだよ〜」
という反論をこっそりと胸にしまい、
自分なら木陰を優先するのに、と思いつつも、
「じゃあ、記念にするから、丸太をちょうだい」
とお願いし、数十元払って丸太と切り株を入手したのだった。

だが、もらったはいいものの、そこではたと困った。
さて、これをどうする?
そう、加工する手段がないのだ。

思えば、なんとも不思議。
現代人は日々、大量の木やコンクリートやプラスチックやタイルといったものに囲まれて暮らしているけれど、
いざその原材料を手にしても、何もできず、もてあますだけ。

やがて私たちは、もてあましたまま、その丸太と切り株を抱えて引っ越しすることになった。
ひそかに自分なりに使い道を決めていた私は、どうしても丸太を捨てる気になれなかったからだ。

そして、うかうかしている間に3年。
確か木は切ってから2年くらいかけて乾かさないと使いづらい、と聞いた気がする。
乾燥している北京では、3年あれば十分すぎるほど乾いているはず。

そこで、私はのこぎりを買い、晴れた日を待った。
それが今日。

しかし、頭では分かっていた。
家庭用ののこぎりで、大人でもひと抱えはある丸太を切ろうというのだから、
無謀もいいところだ、と。

途中で無理と気づいたらあきらめればいい。
そんな「逃げる気満々」のゆるい決心で、ギーコ、ギーコと始めた。

切れないことより怖いのは、隣人が来て、
「無理無理、やめた方がいい」とあれこれ口を挟み、気を挫かれること。
あの人、バカなことをやってる変人だ、といった噂が広まるのもかなわない。
確かに、同じ「愚公移山」を気取るなら、
香港の学生を応援した方が何十倍もましなのかもしれなかった。

だが幸い、隣人と遭遇したのは、ある程度切れてからのこと。
そのため、かけられた言葉は
「たいへんねえ」、「何に使うの」、「うちにもうちょっと大きなのこぎりあるから、使ったら?」、「でも、そののこぎりもけっこう切れるわね」
くらいのもの。
その隣人はしまいに自分の小さな娘に
「このおばちゃんと遊んでなさい」
と言い残すと、買い物に出かけてしまった。

こうなると、
のこぎりでガンガン丸太を切っている時に娘を預けるくらいだから、
私もずいぶんと信頼されたものだ、とちょっと嬉しくなる。
だが、娘さんの方は、延々とギコギコやっているだけの私といても、面白いわけがない。
そこであれこれ質問し、最近手に入れたらしき「何とかカード」を得意げに見せてくれた後は、
自分の家に入ってしまった。

そして、ギコギコ続けること約1時間半。
やっと丸太が切れた。
といっても、ただ一カ所切れただけでは、理想の実現にはまだ程遠い。

つまり今日の成果はただ、
刃渡り30センチ強の家庭用のこぎりでも直径30センチの
丸太が切れるということを証明しただけ。

でも、何だかすごく嬉しくて達成感がある。
それが、現代人というものなのかもしれない、と言ったら
「そりゃ、あんただけ」
と笑われるだろうか。