北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

「この素晴らしき世界」と『ビラブド』

先日、家のテレビである映画を観た後、相棒が、
「さっきの曲、なんの曲?誰が歌ってるの?」としつこく聞いてきた。
その映画では、とくに目新しい曲を聴いた印象がなかったので、私はちんぷんかんぷん。

曲折を経て、その曲はルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」だということがわかった。
インターネットでその曲を探し当てた相棒は、素晴らしい曲だ、と心から感動している様子。

もちろん、私だって未来に残していくべき、素晴らしい名曲だと思う。
でも、小さい頃から何度も何度も耳にしているので、イマイチ新鮮味がない。
初めて聴いた時の感動も、正直、あまり印象に残っていない。

それで、私はなんだかとても相棒が羨ましくなった。
もし私が中年、または中年も過ぎかけている年頃になって、初めてこの曲を聴いたとしたら、
どんな感動を覚えるのだろう?と。

商業的にヒットした曲って、何度も何度もCMやラジオで流され、人々の記憶に刻まれていく。それはもちろん、その人の思い出も一緒に刻み込むことにもなり、悪いことばかりではないのだけれど、

時に食傷気味になるのも確か。

だから、しばらくちょっと忘れられ、ふたたび蘇った時の方がインパクトがあったりする。
これは、距離を置くと良さが際立つという道理の延長線上にあるのかもしれない。

相棒は、アームストロングがもう40年以上も前に亡くなっていると知って驚いていた。
それは、彼の歌がまったく古くなっていない証拠であるとともに、
当時の中国がいかに世界の流行と隔絶されていたかを強く感じさせる。
もちろん、ベトナム戦争の頃に反戦の意味を込めて作られた歌だということも、影響したのかもしれないが。

でも、人生の酸いも甘いもある程度味わった今、とても新鮮な気持ちで、食傷気味になることもなくこの曲に感動できるなら、それはそれで得難いことだ。

考えれば、情報が同時代で共有される時代なんてここ100年足らずのことなのだから、今、世の中に残っている昔の名歌というものの多くも、もともとは数年、数十年の時差で広まっていったのかもしれない。

ちなみに私は先日、トニ・モリスンの『ビラブド』を読んだ。
黒人が奴隷として扱われていた時代に自由を希求した黒人たちの、
筆舌に尽くしがたいほどの苦難と、
過去の亡霊を追い払い、本当の意味での自由を手に入れるまでのあがきを描いた名作だ。

この小説のことを思い出しながら、さらに歌詞をじっくり味わいつつ「この素晴らしき世界」を聴いてみたところ、今度は私まで感動してしまった。
しかも、涙までハラハラと出てくる。
人間なら誰でも味わえていいはずのささやかな幸せ。
それさえもが奪われた時代がかつてはあったのだ。
ほんとうに、今このタイミングで、この曲の魅力に気づいてくれた相棒に、ありがとう、と言いたくなった。

つまり私の場合は、時差こそなかったけれど、名作同士が呼応したおかげで、新たな感動を味わえたことになる。

それはともかく、
この曲が『ビラブド』やベトナム戦争の時代からるか遠く離れた今でも心に響くのはきっと、
「ありふれた幸せ」の貴重さが、古くならないどころか、ますます脅かされているからだ。

程度は全く違うけれど、人を奴隷にするものは、今の世界にも少なくない。
戦争、社会のシステムや因習、余計な常識や押し付けがましい道徳、そしてそれらが呼び込む精神的なプレッシャー……いろんなことが、今も人を奴隷にしている。
富やテクノロジーなど、本来、人を幸せにすると信じられていたものだって、人を奴隷にすることがある。
当たり前に見えることについて、改めて考えてみること、それが自由を求めることでもあるんだな、とつくづく思う。